2011年04月04日
被災地からの手紙が開催させたコンサート
私がユーオーディアコンサートのことを知ったのは4月1日。
つくば市のNPO法人、自然生クラブのホームページで短い告知文を見たのがきっかけだった。最初はどこで開催されるかも分からず、またユーオーディアという名前にもこれまで馴染みがなかったので、自然生クラブのYさんにメールで問い合わせてみたら、場所は東京の新宿だとメールのレスが返ってきた。しかも入場料は一番安いB席でも2500円。この大変な時期にこの出費はきついとは思ったけれど、是非来てくださいとYさんが勧めるので、少々悩みながらも出かけることにした。Yさんは今回の原発事故の問題に真剣に取り組んでいたし、こちらもYさんに渡すべき資料があった。Yさん自身もコーラスで参加するというし、コンサートの終わりにでも会って資料を手渡せればと思って出かけた。
会場は東京オペラシティコンサートホール。ここへ行くのは初めてだった。最初はこじんまりしたホールを想像していたのだが、行ってみて驚いた。新宿・初台の一等地にやたらどでかい建物が居座っている。それが東京オペラシティのビルだった。敷地だけでも私には馴染みの水戸芸術館が5つも6つも入りそうで、しかも凄く贅沢な建物の建て方をしている。甲州街道の大通りに面した出入口からホールまで延々と続く、長く広々とした通路だけでも驚嘆すべき、というより呆れた。よくもまあ、土地の値段だけでもべらぼうに高いはずのこの場所に、こんなブルジョアの殿堂みたいな代物を。でもオペラ愛好家の小泉元総理がよく来ていそうな場所だな。なんて思いながらホール入り口でチケットを買い、中へ入った。
ホールはこれまで私が見た中で一番広い。音楽専用のホールでこれほど豪華なのは、これまで見たことがない。私の席は2階席だったが、そこから見下ろせる1階席はほとんど人で埋まっている。やがて開演の時間となり、ユーオーディアの代表から挨拶があった。
その挨拶で語られたのが次の話だ。
このコンサートの開催を巡っては、代表をはじめスタッフも相当悩んだ。
予想もしなかった未曾有の災害、東日本大震災と福島第1原発事故が起きてしまった今、このコンサートを予定通りに開催すべきか、それとも中止すべきなのか。その問題を巡ってスタッフの間で激論が続いたが、意見はまとまりそうにない。
そんな折、被災地の宮城県から1通の手紙が届いた。
ユーオーディアのメンバーからの手紙だった。私は会場でメモを取らずにいたので、自分自身の記憶だけを頼りに書くことになるが、その手紙には次のような話が書かれていた。
私は無事です。ですが私の幼馴染は2人の子供を残したまま津波にさらわれ、今も行方不明です。
私の住む仙台の若林区は被害の最も大きい地域で、私は地元の避難所でボランティアを始めましたが、その避難所さえとても酷い状況で、そこに居るだけで気分が悪くなってしまうような場所です。あの大津波の後も、また津波が来るという知らせが届いたことがありました。後でそれは誤報だと分かったのですが、その時の私は車椅子の避難者の方を数人がかりで持ち上げて、上の階へと避難させましたが、その時はこれで自分も終わりかもしれないと覚悟を決めました。
これまでの日常が破壊されてしまい、大変な状況で生きている私達ですが、それでもふと夜中に夜空を見上げると、満天に輝く星の美しさに驚きます。そして神様の創った自然はこれほどまでに美しかったのかと気づかされます。同時に、これまでの自分達はこんなにも美しいものが身近にあることに気づかぬまま、心を曇らされてその日その日を生きてきたことを悔やみたくなります。今の私はこれまでになく人間の罪深さと弱さを思い知らされ、その一方で神様の創った自然の美しさを賛美したいという強い想いがあふれてきます。
ユーオーディアの皆様にお願いです。このような時だからこそ、神様を賛美してください。聖書の言葉にあるように、良き時も悪しき時も変わることなく、神様を讃え続けてください。
この手紙を読んだスタッフ達の意見はたちどころにまとまったという。
今のこの時だからこそコンサートを開催しよう。良き時も悪しき時も変わることなく、神様を讃える言葉を伝えていこうと。
そして予定されていたコンサートは、被災地へ祈りを届けるコンサートとして開催された。
私はキリスト教徒ではない。
キリスト教のことはそれなりに学んでいるが、信者になろうという気はない。
ユーオーディアはキリスト教に基づく音楽活動をしている団体だが、私はコンサートの当日までそのことを知らなかった。音楽の好みから言っても、「クラシックなんか聴いても退屈するだけだ」と常日頃から思っていた私は、高校卒業以来クラシックのコンサートに足を運んだことがなかった。なのに会場で手渡されたプログラムを見ると、演目はクラシックと賛美歌ばかり。私が一番心配だったのは、演奏を聴きながらついつい居眠りしてしまわないかということだった。コンサート当日も仕事の夜勤明けで、睡眠は電車の中で仮眠した程度。コンサートで眠り込んでしまう心配も大きかったのだが‥‥幸いなことにその心配は取り越し苦労で済んだ。それでもクラシックの演奏は──Yさんに言わせると一流の演奏なのだが──やはり私にはとっつきにくい感じがした。
それでも最初の挨拶で、このコンサートが開かれるまでの経緯を知ることが出来たことはとても良かった。自分にとってはコンサートそのものよりも、コンサートが開かれるまでの話を聞けたことのほうが収穫だった。
大震災と原発事故で日本中に自粛ムードが蔓延する今、中止されるイベントが数多いと私は聞いている。しかし、この深刻な状況下でもユーオーディアはコンサートを開催した。しかも開催を実現させたのは、被災地からの一通の手紙だった。
私はこのことを、一人でも多くの人に知って欲しいと思う。
余談だが、コンサートの終わりに会おうと思っていたYさんとは、結局会場では会えなかった。しかし会場スタッフの方が「コーラス参加者とはお会いできませんが、渡すものがあれば責任をもってお届けします」と対応してくれたので、私はYさんに渡す書類を預けたが、その時のスタッフの対応が見事だった。大勢の参加者の中にいるYさんの名前をきちんと覚えていて、同姓の参加者との名前の違いやYさんの出身地まで把握していたのには感服した。後日、Yさんからお礼のメールが届き、私が預けた書類が無事に届けられたことも確認できた。
※ユーオーディアのサイトはこちら
http://euodia.jp/
つくば市のNPO法人、自然生クラブのホームページで短い告知文を見たのがきっかけだった。最初はどこで開催されるかも分からず、またユーオーディアという名前にもこれまで馴染みがなかったので、自然生クラブのYさんにメールで問い合わせてみたら、場所は東京の新宿だとメールのレスが返ってきた。しかも入場料は一番安いB席でも2500円。この大変な時期にこの出費はきついとは思ったけれど、是非来てくださいとYさんが勧めるので、少々悩みながらも出かけることにした。Yさんは今回の原発事故の問題に真剣に取り組んでいたし、こちらもYさんに渡すべき資料があった。Yさん自身もコーラスで参加するというし、コンサートの終わりにでも会って資料を手渡せればと思って出かけた。
会場は東京オペラシティコンサートホール。ここへ行くのは初めてだった。最初はこじんまりしたホールを想像していたのだが、行ってみて驚いた。新宿・初台の一等地にやたらどでかい建物が居座っている。それが東京オペラシティのビルだった。敷地だけでも私には馴染みの水戸芸術館が5つも6つも入りそうで、しかも凄く贅沢な建物の建て方をしている。甲州街道の大通りに面した出入口からホールまで延々と続く、長く広々とした通路だけでも驚嘆すべき、というより呆れた。よくもまあ、土地の値段だけでもべらぼうに高いはずのこの場所に、こんなブルジョアの殿堂みたいな代物を。でもオペラ愛好家の小泉元総理がよく来ていそうな場所だな。なんて思いながらホール入り口でチケットを買い、中へ入った。
ホールはこれまで私が見た中で一番広い。音楽専用のホールでこれほど豪華なのは、これまで見たことがない。私の席は2階席だったが、そこから見下ろせる1階席はほとんど人で埋まっている。やがて開演の時間となり、ユーオーディアの代表から挨拶があった。
その挨拶で語られたのが次の話だ。
このコンサートの開催を巡っては、代表をはじめスタッフも相当悩んだ。
予想もしなかった未曾有の災害、東日本大震災と福島第1原発事故が起きてしまった今、このコンサートを予定通りに開催すべきか、それとも中止すべきなのか。その問題を巡ってスタッフの間で激論が続いたが、意見はまとまりそうにない。
そんな折、被災地の宮城県から1通の手紙が届いた。
ユーオーディアのメンバーからの手紙だった。私は会場でメモを取らずにいたので、自分自身の記憶だけを頼りに書くことになるが、その手紙には次のような話が書かれていた。
私は無事です。ですが私の幼馴染は2人の子供を残したまま津波にさらわれ、今も行方不明です。
私の住む仙台の若林区は被害の最も大きい地域で、私は地元の避難所でボランティアを始めましたが、その避難所さえとても酷い状況で、そこに居るだけで気分が悪くなってしまうような場所です。あの大津波の後も、また津波が来るという知らせが届いたことがありました。後でそれは誤報だと分かったのですが、その時の私は車椅子の避難者の方を数人がかりで持ち上げて、上の階へと避難させましたが、その時はこれで自分も終わりかもしれないと覚悟を決めました。
これまでの日常が破壊されてしまい、大変な状況で生きている私達ですが、それでもふと夜中に夜空を見上げると、満天に輝く星の美しさに驚きます。そして神様の創った自然はこれほどまでに美しかったのかと気づかされます。同時に、これまでの自分達はこんなにも美しいものが身近にあることに気づかぬまま、心を曇らされてその日その日を生きてきたことを悔やみたくなります。今の私はこれまでになく人間の罪深さと弱さを思い知らされ、その一方で神様の創った自然の美しさを賛美したいという強い想いがあふれてきます。
ユーオーディアの皆様にお願いです。このような時だからこそ、神様を賛美してください。聖書の言葉にあるように、良き時も悪しき時も変わることなく、神様を讃え続けてください。
この手紙を読んだスタッフ達の意見はたちどころにまとまったという。
今のこの時だからこそコンサートを開催しよう。良き時も悪しき時も変わることなく、神様を讃える言葉を伝えていこうと。
そして予定されていたコンサートは、被災地へ祈りを届けるコンサートとして開催された。
私はキリスト教徒ではない。
キリスト教のことはそれなりに学んでいるが、信者になろうという気はない。
ユーオーディアはキリスト教に基づく音楽活動をしている団体だが、私はコンサートの当日までそのことを知らなかった。音楽の好みから言っても、「クラシックなんか聴いても退屈するだけだ」と常日頃から思っていた私は、高校卒業以来クラシックのコンサートに足を運んだことがなかった。なのに会場で手渡されたプログラムを見ると、演目はクラシックと賛美歌ばかり。私が一番心配だったのは、演奏を聴きながらついつい居眠りしてしまわないかということだった。コンサート当日も仕事の夜勤明けで、睡眠は電車の中で仮眠した程度。コンサートで眠り込んでしまう心配も大きかったのだが‥‥幸いなことにその心配は取り越し苦労で済んだ。それでもクラシックの演奏は──Yさんに言わせると一流の演奏なのだが──やはり私にはとっつきにくい感じがした。
それでも最初の挨拶で、このコンサートが開かれるまでの経緯を知ることが出来たことはとても良かった。自分にとってはコンサートそのものよりも、コンサートが開かれるまでの話を聞けたことのほうが収穫だった。
大震災と原発事故で日本中に自粛ムードが蔓延する今、中止されるイベントが数多いと私は聞いている。しかし、この深刻な状況下でもユーオーディアはコンサートを開催した。しかも開催を実現させたのは、被災地からの一通の手紙だった。
私はこのことを、一人でも多くの人に知って欲しいと思う。
余談だが、コンサートの終わりに会おうと思っていたYさんとは、結局会場では会えなかった。しかし会場スタッフの方が「コーラス参加者とはお会いできませんが、渡すものがあれば責任をもってお届けします」と対応してくれたので、私はYさんに渡す書類を預けたが、その時のスタッフの対応が見事だった。大勢の参加者の中にいるYさんの名前をきちんと覚えていて、同姓の参加者との名前の違いやYさんの出身地まで把握していたのには感服した。後日、Yさんからお礼のメールが届き、私が預けた書類が無事に届けられたことも確認できた。
※ユーオーディアのサイトはこちら
http://euodia.jp/
2011年03月28日
一昨日の出来事
現在、うちのパソコンからネットにアクセスできず、メールも送れない。
それでパソコンで作成した文章をいったんマイクロSDカードに移し、携帯電話にセットして携帯からメール送信することにしたのだが。
なんてこった、マイクロSDカードとパソコンをつなぐアダプターがどっかへいってしまって見つからないぞ。
仕方なく新しいアダプターを買いに、近所の家電量販店へ出かけた。
あの大震災の日、3月11日を境にして店内の様子もすっかり変わってしまった。
明るかった売り場は節電のため薄暗く、店内に音楽も流れていない。
テレビは1台を残して全て電気を切られている。
ただ一つスイッチ・オンになっているテレビには、バレエの女性ダンサーの映像が映っていた。ロンドンで開かれている世界選手権の映像らしい。
踊る姿は優雅だけれど、表情にはひどく悲壮感が浮き出ているように見える。
続くインタビューの場面で、彼女はこう言った。
「日本は必ず復興します」
その真摯な表情に思わず見とれてしまったが、その後でこう突っ込みを入れたくなった。
俺としては『復興します』じゃなくて、『復興させます』って言って欲しいな。
でもその前に、次にやって来る危機を乗り越えなくちゃね。
まさか、危機はもう終わったと考えているんじゃないだろうね?
そう考えているとしたら、あまりにも楽観的すぎるぞ。
「最悪だ!」と叫びたくなるような事態は、これからも次々とやって来るはずなんだ。
あの大震災から2週間がたった今、近所のガソリンスタンドはあの日の前と同じように、特別なことなど何もなかったかのように営業している。2週間前、スタンドの前に出来ていた長い車の列が嘘のようだ。
スーパーでも全体の品数は少なくなったものの、すっかり空っぽになってしまったカップ麺売り場の棚にも、商品が戻ってきた。
レジで会計を済ませて、ふと買い物カゴ置き場の台の上を見ると、東日本巨大地震被災者救援の募金箱が置いてあった。
透明なアクリルの募金箱の中には千円札が。数えてみると1、2、3、4枚。
透明な箱の中の千円札がとてもまぶしく見える。
この国もまだまだ捨てたものじゃない。
でも日本の深刻な危機はまだまだ進行中だ。
↓この先のガチでお堅い話はこちらのブログで。
http://onceinamillennium.tsukuba.ch/e120200.html
それでパソコンで作成した文章をいったんマイクロSDカードに移し、携帯電話にセットして携帯からメール送信することにしたのだが。
なんてこった、マイクロSDカードとパソコンをつなぐアダプターがどっかへいってしまって見つからないぞ。
仕方なく新しいアダプターを買いに、近所の家電量販店へ出かけた。
あの大震災の日、3月11日を境にして店内の様子もすっかり変わってしまった。
明るかった売り場は節電のため薄暗く、店内に音楽も流れていない。
テレビは1台を残して全て電気を切られている。
ただ一つスイッチ・オンになっているテレビには、バレエの女性ダンサーの映像が映っていた。ロンドンで開かれている世界選手権の映像らしい。
踊る姿は優雅だけれど、表情にはひどく悲壮感が浮き出ているように見える。
続くインタビューの場面で、彼女はこう言った。
「日本は必ず復興します」
その真摯な表情に思わず見とれてしまったが、その後でこう突っ込みを入れたくなった。
俺としては『復興します』じゃなくて、『復興させます』って言って欲しいな。
でもその前に、次にやって来る危機を乗り越えなくちゃね。
まさか、危機はもう終わったと考えているんじゃないだろうね?
そう考えているとしたら、あまりにも楽観的すぎるぞ。
「最悪だ!」と叫びたくなるような事態は、これからも次々とやって来るはずなんだ。
あの大震災から2週間がたった今、近所のガソリンスタンドはあの日の前と同じように、特別なことなど何もなかったかのように営業している。2週間前、スタンドの前に出来ていた長い車の列が嘘のようだ。
スーパーでも全体の品数は少なくなったものの、すっかり空っぽになってしまったカップ麺売り場の棚にも、商品が戻ってきた。
レジで会計を済ませて、ふと買い物カゴ置き場の台の上を見ると、東日本巨大地震被災者救援の募金箱が置いてあった。
透明なアクリルの募金箱の中には千円札が。数えてみると1、2、3、4枚。
透明な箱の中の千円札がとてもまぶしく見える。
この国もまだまだ捨てたものじゃない。
でも日本の深刻な危機はまだまだ進行中だ。
↓この先のガチでお堅い話はこちらのブログで。
http://onceinamillennium.tsukuba.ch/e120200.html
2011年03月21日
大地震が起きた
この文章は、ネットカフェの一室にこもって書いている。
3月11日、朝方にいつもの夜勤から帰宅し、午後やや遅くに目覚めた僕は、台所で家事をしながらこれからの外出予定のことを考えていた。
いきなり床が揺れだした。これまでにも地震は幾度か経験したことがあるが、この揺れはそれまでに経験したことのない激しさだ。危険を感じたので急いでドアを開けて外へ出た。
僕の部屋はアパートの2階。入り口すぐ近くの鉄製の手すりにつかまって、僕は周りの景色を見つめた。
周りの家がゆさゆさ揺れているのが一目で分かる。足元の揺れがあまりにも激しくて、「まるで遊園地のアトラクションみたいだ」と思った。不思議と恐怖感は感じなかったが、ただ自分の住む築ン十年は経っていそうなアパートが、激しい揺れで潰れないかどうかが心配だった。
しばらくして揺れは止み、台所に戻ってみると、棚の食器が落下してお気に入りの食器がいくつも砕けていた。重たい冷蔵庫は30センチほど動いてしまい、もともと散らかっていた自分の部屋はいっそう散らかってしまった。
やがて、同じアパートの住人が戻ってきた。しばらく前に越してきた、いい年したオヤジだ。
「すごかったな~、100円ショップにいたんだけど、揺れで棚の商品がみんな落っこちて、電気が通じなくなって追い出されちゃったよ」
「こっちも冷蔵庫が動いちゃいましたよ」
隣に住むおばあさんも外に出てきたので、オヤジは声をかけた。
「おばさん、大丈夫か?」
「うちの仏壇が倒れちゃって、一人では起こせないよ」
皆で笑いながらそんな会話を交わした後、オヤジはドアを開けてびっくり。
「うわ、こりゃひどいな」
「うちだって、そんなもんですよ」
オヤジとの会話を終えて僕は部屋へ戻る。やがて電気が回復し、先の地震のニュースをやっていないかと思ってテレビをつけた。
流れてきたのは信じられない映像だった。
町が濁流に飲み込まれ、船が町の中を流れていく。
幌のついた桟橋が押し流され、建物に衝突する。
車が次々と何十台も連なって流されていく。
黒い水とそれに押し流される建物の残骸が大地を覆い、田畑を飲み込んでいく。
この時になって僕は、ようやくこの震災の深刻さを知った。
3月11日、朝方にいつもの夜勤から帰宅し、午後やや遅くに目覚めた僕は、台所で家事をしながらこれからの外出予定のことを考えていた。
いきなり床が揺れだした。これまでにも地震は幾度か経験したことがあるが、この揺れはそれまでに経験したことのない激しさだ。危険を感じたので急いでドアを開けて外へ出た。
僕の部屋はアパートの2階。入り口すぐ近くの鉄製の手すりにつかまって、僕は周りの景色を見つめた。
周りの家がゆさゆさ揺れているのが一目で分かる。足元の揺れがあまりにも激しくて、「まるで遊園地のアトラクションみたいだ」と思った。不思議と恐怖感は感じなかったが、ただ自分の住む築ン十年は経っていそうなアパートが、激しい揺れで潰れないかどうかが心配だった。
しばらくして揺れは止み、台所に戻ってみると、棚の食器が落下してお気に入りの食器がいくつも砕けていた。重たい冷蔵庫は30センチほど動いてしまい、もともと散らかっていた自分の部屋はいっそう散らかってしまった。
やがて、同じアパートの住人が戻ってきた。しばらく前に越してきた、いい年したオヤジだ。
「すごかったな~、100円ショップにいたんだけど、揺れで棚の商品がみんな落っこちて、電気が通じなくなって追い出されちゃったよ」
「こっちも冷蔵庫が動いちゃいましたよ」
隣に住むおばあさんも外に出てきたので、オヤジは声をかけた。
「おばさん、大丈夫か?」
「うちの仏壇が倒れちゃって、一人では起こせないよ」
皆で笑いながらそんな会話を交わした後、オヤジはドアを開けてびっくり。
「うわ、こりゃひどいな」
「うちだって、そんなもんですよ」
オヤジとの会話を終えて僕は部屋へ戻る。やがて電気が回復し、先の地震のニュースをやっていないかと思ってテレビをつけた。
流れてきたのは信じられない映像だった。
町が濁流に飲み込まれ、船が町の中を流れていく。
幌のついた桟橋が押し流され、建物に衝突する。
車が次々と何十台も連なって流されていく。
黒い水とそれに押し流される建物の残骸が大地を覆い、田畑を飲み込んでいく。
この時になって僕は、ようやくこの震災の深刻さを知った。