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プロフィール
岩崎綾之
つくば市茎崎在住の社会人。普段の仕事は地元での工場勤務。請負社員やってます。副業としてノベルゲームの原稿書きのアルバイトもやっているけれど、小説形式のRPGというマイナーなジャンルなので知名度はイマイチ。仕事休みの日は映画を観に行ったりカラオケに行ったりすることが多かったけれど、2007年秋から地元の在日難民支援NPOの活動に関わるようになり、今ではそっちの会報の原稿を書いたりすることもあり。2008年10月よりどういうわけか劇団バリリー座に参加し、人手不足から役者を務める羽目に。それがこのブログを立ち上げたそもそものきっかけ。

2010年11月25日

どんぐりの家

 自然生クラブ、これは筑波山の麓にある、知的障害児と共に暮らす共同体だ。
 一般的には障害児のための"施設"という呼ばれ方をするのだろうけれど、責任者の柳瀬氏はあえて"共同体"という言葉を使っておられるようだ。実際、自然生クラブの運営方針はユニークで、単に障害児の世話をするのみならず、障害児と共に有機農業を営み、また障害児と共に田楽舞という舞踏を嗜み、国内そして国外でもたびたび公演を行っている。また自然生クラブの職員を中心に結成された百景社という劇団があり、クラブの所有する劇場もある。この劇場はもともとは米を貯蔵する蔵だったものを改造したもので、百景社の公演に使われる以外にも、地元のアーティストの公演に貸し出されたり、また福祉や有機農業の分野で活躍する専門家がここに招かれ、セミナーが開かれたりすることもある。
 その活動範囲は単なる施設の枠を越え、さまざまな人々のつながる共同体として機能している。だから私も"施設"よりも"共同体"という呼び名の方が相応しいと思う。

 私が自然生クラブの存在を知ったのは確か一昨年、2008年の秋頃で、その活動に興味を覚えてたびたびその所在地に足を運ぶようになった。今年の秋になって、自然生クラブが桜川市のホールで開かれる福祉関係の映画上映会で田楽舞を披露するという話を知り、自宅から桜川市までは遠かったけれど、折角なのでその会場を訪ねてみた。

 前置きが長くなったが、これから書くのはそのイベントのことだ。

 ハートフル映画祭inシトラス

 これがイベントの正式名称で、上映された映画が『どんぐりの家』。

 どういう映画なのかは、チラシに紹介文があるので、それを読んでもらうのがいいだろう。

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 アニメ映画「どんぐりの家」は、実在するろう重複障害者の共同作業所をモデルにしたヒューマンドラマです。
 ハンディを背負った子どもたちの成長を願い、苦しみながらも歩んでいく家族、それを支える人々の姿は、福祉の原点を問いかけるものです。
 “桜川で「どんぐりの家」を観る会”では、この映画を通して、障害者への理解を深め、思いやりと優しさのあるまちづくりの輪を広げていきたいと考えています。
 また当日は、この映画をいろいろな国で上映したいという留学生の思いに賛同し、募金活動を行います。
 多くの国で「どんぐりの家」が上映されることを期待しています。
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 そもそも私は映画のほうにさほど関心はなく、予備知識をまったく仕入れてなかった。会場に着いたのが上映開始ギリギリの時間で、映画が始まってようやく「えっ!? これってアニメだったの?」と気がつく始末。だけど上映が終わった後で、「この映画を観ることが出来て、本当に良かった」と思った。そして、「この映画をぜひとも、1人でも多くの人に観てもらいたい」とも思った。この映画にはそれだけの力がある。アニメだけれど(ただし一部に実写の場面もある)、アニメだから表現できたし、アニメだからここまで踏み込めて描くことが出来たし、アニメだからこそこれだけの訴える力を持てたのだと思う。

 上映後には一般参加者を交えたフォーラムの時間が用意されており、そこで色々な方が感想を述べられたが、皆に共通していたのは「この映画からは多くのことを学ぶことが出来る」という意見だった。私もまったくその通りで、この映画から多くのことを学ばされたし、これからも多くの発見をしていくことだと思う。
 その全てを書き出すのは難しいけれど、少しだけ例を挙げてみよう。
 何よりも私が心を揺り動かされたのは、この映画が“障害者と共に生きる”ということをきれい事で終わらせず、きれい事だけではやっていけない現実を真正面から見据え、その有様をしっかりと描いていることだ。
 映画の主人公は障害児を持つ母親。仮死状態で生まれた娘が、やがて重度の障害児であることが分かる。家庭に障害児を抱え込むという過酷な現実に打ちのめされ、幸せだった家庭が絶望に飲み込まれ荒廃していく有様が、映画では容赦なく描かれていく。子どもの介護に疲れて絶望する母親、家庭で安らぐことが出来ず妻にあたり散らし酒に溺れる父親、そんな親の目の前で動物のように本能のまま暴れる子ども、観ているこちらが「ここまで描いていいのか? この家族はどうなってしまうのだろう?」とハラハラしてしまうほどだが、結局その家族は一つの事件をきっかけとして、立ち直りの道を歩んでいくことになるのだ。観ている方もハラハラドギドキから、頑張れ頑張れとエールを送りたい気持ちになり、その後はただただ映画に引き込まれて最後まで観てしまった。
 あと一つ。映画で描かれている、きれい事だけではやっていけない現実の例を。
 小学校から高校までの十五年間、先生方の手厚い教育と訓練を受けて養護学校を卒業したものの、それを受け入れる場が社会にあまりにも少なく、結局、家に閉じこもってしまう障害児のケースだ。ただ家族に食べさせてもらうだけの生活で、学校で育まれた適応力も失われていき、健康状態も悪化する。親は年老いていき、親に先立たれたら生きていく術はない。
 もしも自分が死んだら、この子はどうなってしまうのだろう?
 そういう悩みを持つ、障害児を抱える親たちが集まって立ち上がった。
 社会に受け入れる場がないのなら、自分たちでその場所を作ろうと。
 それが障害児のための共同作業所、重度の障害児がハンディを気にすることなく働ける場所、それは『どんぐりの家』と名づけられた。
 この“障害者を受け入れる場所を、当事者たちが社会の中に作る”ということが、映画の後半の重要なテーマになるのだけれど、私は映画を観ながら、今社会で問題になっている引きこもりやニートのことを連想してしまった。社会に生き甲斐を見出せず自宅に引きこもり、ただ親に面倒を見てもらう若者達のことが社会問題化した最初は、確か1980年代のことだったと思う。その若者も今や40代・50代の高年齢に達し、面倒を見る親が亡くなったら生活能力のないまま社会に放り出されてしまうということが、支援者の間で懸念されているというニュースをどこかで読んだ記憶がある。実際、ニートがホームレスになるケースも出始めているという。
 かつての高度経済成長も、バブルの熱狂もどこへやら、今の日本の社会はすっかり元気をなくしているし、政治も経済もガタガタだ。引きこもりやニートの問題も日本社会の生きづらさの表れだとも思う。しかし生きづらい社会のしわ寄せを最も受けるのは、やはり大きなハンディを抱えた障害者とその家族だろう。しかし社会の中で最も困難を抱え、最も苦しんでいるはずの当事者達が立ち上がり、自分たちの手で『どんぐりの家』という行き場を作り出したのだ。これには当事者のみならず、大勢の人々の支援があってこそ出来たことなのだけれど、その運動の中心にあったのは常に当事者たちだった。
 この映画はその運動の貴重な記録だし、それは障害者のみならず、共にこの社会で困難を抱えながら生きている大勢の人々にとって励みになり、また多くの学ぶべきことを与えてくれるだろう。
 だから私は、出来るだけこの映画を1人でも多くの人に観てもらいたいと思う。
 会場にはこの映画を観て感動し、これをモンゴルで上映するために頑張っている、3人の留学生の方もみえていた。既にモンゴル語の字幕付きのものをモンゴルで上映し、これからも上映を続けていくそうだが、映画を観た人はとてもテンションが上がっていたとか。日本から遠く離れたモンゴルでも感動の輪が広がっているようだ。

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Posted by 岩崎綾之 at 20:36│Comments(0)福祉と介護
 
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