2009年11月01日
観劇:劇団新和座第3回公演『エレクトラ』
困ったぞ。俺の脳には演劇学校の講師の長谷川さんが常駐しちゃってる。
今年の5月から9月にかけて、水戸の演学でハードに絞られて、何度も何度も延々と演技にダメ出しされる時間の中にいたせいで、今もって思考パターンがあの時のまんまだ。そんなわけで10月31日のハロウィンの日、東京・阿佐ヶ谷のかもめ座まで行って、劇団新和座の公演『エレクトラ』観てる時でさえも、俺の脳内で長谷川さんがやたらとダメ出ししてくれる。
「違う、動きすぎだ」
「違う、どこにフォーカスがあるのか分からない」
「違う、台詞を喋ってるだけで体が演技していない」
「違う、それじゃ何言ってるか分からない」
「そこの立ち位置、そんなに相手と距離が離れてていいの?」
「台詞、噛んだね」
「やり直し」
下手に演劇の世界に足突っ込んでると、こういう弊害もあるわけで。
どうするかな~? ダメ出しといっても俺の主観なわけだから、他所の劇団にまで勝手にダメ出ししたら難癖つけてるように受け止められるかもな~。
とか、最初は悩んだのだけれど。
でも新和座のパンフ見たら、かもめ座芸術監督・武藤賀洋さんの言葉が載っている。
──なにぶん、まだまだこれからも研鑽を続けて参る身。皆様の叱咤激励が明日の私どもの糧となります。
と、書いてある。
そうか、叱咤激励されると励みになるという書きっぷりだし、ならば多少きつ目に批評しても大丈夫だろう。
そういうことで以下の文は、俺としてはどうにも譲れない点を批評っぽくまとめてみたものだ。
《1》エレクトラのココがヘン?
今回はダブルキャストということで、午後2時と午後7時の2回の上演で、次の役を別々の役者が演じている。
エレクトラ(ヒロイン) ならりえ/今松くるみ
オレステス(ヒーロー) 北村空/古川康史
アイギストス(悪役) 古川康史/北村空
先の上演と後の上演で、ヒーローと悪役の役者が入れ替わるというのが面白い。
全体的な印象では、先の上演は役者の動きが多くて動的。後の上演は静止したポーズでの演技が目立ち静的な感じがした。そして単刀直入に言えば、後の上演の方が先の上演よりもずっと完成度が高く見えた。逆の言い方をすれば、先の上演では色々と粗が目立った。私は水戸の演劇学校でプロの演劇講師から演技指導を受けた経験があり、それで余計に厳しい見方になってしまうのかもしれない。皮肉な言い方になってしまうかもしれないが、今回の2回の上演は演劇を学ぶ教科書に載せるのに相応しい実例とも言えるんじゃないか? そう思った。2時の回は『よくない例』として。7時の回は『よい例』として。
2時の回の難点のうち、ひときわ目立つものを教科書的に取り上げるならば、次のようになるだろう。
【1】エレクトラが動きすぎ
前半、コロスとの会話のシーンで舞台を縦横に大きく動き回っているが、動いている割にはエレクトラの意識がどこに向かっているのかが分からない。鬱屈した思い、苛立ちの表現と察せられるが、セリフの喋り方がずっと同じトーンに聞こえ、動き方も同じ歩調で絶え間なく動き回り続けているから、オーバーアクションで落ち着かない印象になる。見る側としては、「この女はこんなに思いつめているのか」ではなく、「なんでこの女はこんなに落ち着きが無く動き回っているんだ?」という印象を持ってしまう。
【2】エレクトラとクリュタイメストラの関係って何?
クリュタイメストラはエレクトラの妹。その彼女が登場してエレクトラとやり合うシーンを見て、「この2人って仲が悪くていがみ合ってる姉と妹なの?」と思ってしまったが、その後に2人で身を寄せ合って抱き合うシーンが続き、「え? この2人って仲がいいの? じゃあ、さっきのいがみ合いは何?」と思ってしまった。セリフだけを読めば、もう顔も見たくないだの、悪口にしか聞こえないセリフだらけなのだが、感情表現がセリフに引きずられすぎているようだ。セリフには書かれていない行間を読むなら、この姉妹は互いを思いやっているにも係らず、極限状態に置かれているが故に互いを非難する言葉を投げつけあうまでに追い込まれている。言葉ではそうだけれど、本当は仲良くしていたいのだ。どちらもお互いを失いたくないのだ。そのことをセリフ以外の演技、たとえば目線の合わせ方や、翳り・憂い・悲しみを帯びた声色、体をどこまで親密に近づけるかで表現しなければいけないのだが、そういった掘り下げが不十分なので、我を張っていがみ合っているだけの姉妹に見えてしまう。
【3】本当に人を殺しそうな女は派手に動き回らない
このご時世ではいい例えとは言えないが、ナイフを持って今にも人を殺しそうな人間というのを、舞台の上でどう演じるべきか? とにかくナイフを振り回して、最初の登場から派手に舞台を走り回って叫んで暴れてみせればいいか? いいや、そうではない。観客は最初のうちドキッとするだろうが。同じシーンが延々と続けば飽きてくる。舞台への集中が持続しなくなる。いくら役者が奇声を張り上げ、手足をばたばた動かそうと、そればっかりでは観る側はしらけてくる。
逆に、ナイフを持った人間が全身に力をみなぎらせ、険しい顔で殺気立った目線で相手をにらみつけ、じっと立っていたら? あるいはじりじりと近づいてきたら? 逆に観客はハラハラドギドキする。この男がナイフで襲いかかるのは今か今かと。ところがこの男がポーズはそのままでニヤリと笑いを浮かべたら? その表情の変化だけで観客は驚くだろう。一体、この男の心に何の変化が起きたんだ? だが手にナイフは握られたまま。次に何が起きるか分からない。自然と意識は舞台に集中する。──というように、上手い演技というのは動と静、序破急のテンポで緊張感を高め、巧みに観客の意識を舞台に集中させていくものだ。
エレクトラは、今にも人を殺しかねない女。その女がバタバタと動いてばかりでは、その女の存在自体が安っぽく見えてしまう。ここは動きを抑える──というよりも、動かずにいることで緊張感を高まらせ、動く時には緊張から爆発に転じるように一気に動く、というように、どこで動きどこで止まるかということを丹念に計算すべきだろう。
‥‥と、ここまで長く書いたが、まだまだ書き足りないことがあるんで、たぶん続きをまた書く。
今年の5月から9月にかけて、水戸の演学でハードに絞られて、何度も何度も延々と演技にダメ出しされる時間の中にいたせいで、今もって思考パターンがあの時のまんまだ。そんなわけで10月31日のハロウィンの日、東京・阿佐ヶ谷のかもめ座まで行って、劇団新和座の公演『エレクトラ』観てる時でさえも、俺の脳内で長谷川さんがやたらとダメ出ししてくれる。
「違う、動きすぎだ」
「違う、どこにフォーカスがあるのか分からない」
「違う、台詞を喋ってるだけで体が演技していない」
「違う、それじゃ何言ってるか分からない」
「そこの立ち位置、そんなに相手と距離が離れてていいの?」
「台詞、噛んだね」
「やり直し」
下手に演劇の世界に足突っ込んでると、こういう弊害もあるわけで。
どうするかな~? ダメ出しといっても俺の主観なわけだから、他所の劇団にまで勝手にダメ出ししたら難癖つけてるように受け止められるかもな~。
とか、最初は悩んだのだけれど。
でも新和座のパンフ見たら、かもめ座芸術監督・武藤賀洋さんの言葉が載っている。
──なにぶん、まだまだこれからも研鑽を続けて参る身。皆様の叱咤激励が明日の私どもの糧となります。
と、書いてある。
そうか、叱咤激励されると励みになるという書きっぷりだし、ならば多少きつ目に批評しても大丈夫だろう。
そういうことで以下の文は、俺としてはどうにも譲れない点を批評っぽくまとめてみたものだ。
《1》エレクトラのココがヘン?
今回はダブルキャストということで、午後2時と午後7時の2回の上演で、次の役を別々の役者が演じている。
エレクトラ(ヒロイン) ならりえ/今松くるみ
オレステス(ヒーロー) 北村空/古川康史
アイギストス(悪役) 古川康史/北村空
先の上演と後の上演で、ヒーローと悪役の役者が入れ替わるというのが面白い。
全体的な印象では、先の上演は役者の動きが多くて動的。後の上演は静止したポーズでの演技が目立ち静的な感じがした。そして単刀直入に言えば、後の上演の方が先の上演よりもずっと完成度が高く見えた。逆の言い方をすれば、先の上演では色々と粗が目立った。私は水戸の演劇学校でプロの演劇講師から演技指導を受けた経験があり、それで余計に厳しい見方になってしまうのかもしれない。皮肉な言い方になってしまうかもしれないが、今回の2回の上演は演劇を学ぶ教科書に載せるのに相応しい実例とも言えるんじゃないか? そう思った。2時の回は『よくない例』として。7時の回は『よい例』として。
2時の回の難点のうち、ひときわ目立つものを教科書的に取り上げるならば、次のようになるだろう。
【1】エレクトラが動きすぎ
前半、コロスとの会話のシーンで舞台を縦横に大きく動き回っているが、動いている割にはエレクトラの意識がどこに向かっているのかが分からない。鬱屈した思い、苛立ちの表現と察せられるが、セリフの喋り方がずっと同じトーンに聞こえ、動き方も同じ歩調で絶え間なく動き回り続けているから、オーバーアクションで落ち着かない印象になる。見る側としては、「この女はこんなに思いつめているのか」ではなく、「なんでこの女はこんなに落ち着きが無く動き回っているんだ?」という印象を持ってしまう。
【2】エレクトラとクリュタイメストラの関係って何?
クリュタイメストラはエレクトラの妹。その彼女が登場してエレクトラとやり合うシーンを見て、「この2人って仲が悪くていがみ合ってる姉と妹なの?」と思ってしまったが、その後に2人で身を寄せ合って抱き合うシーンが続き、「え? この2人って仲がいいの? じゃあ、さっきのいがみ合いは何?」と思ってしまった。セリフだけを読めば、もう顔も見たくないだの、悪口にしか聞こえないセリフだらけなのだが、感情表現がセリフに引きずられすぎているようだ。セリフには書かれていない行間を読むなら、この姉妹は互いを思いやっているにも係らず、極限状態に置かれているが故に互いを非難する言葉を投げつけあうまでに追い込まれている。言葉ではそうだけれど、本当は仲良くしていたいのだ。どちらもお互いを失いたくないのだ。そのことをセリフ以外の演技、たとえば目線の合わせ方や、翳り・憂い・悲しみを帯びた声色、体をどこまで親密に近づけるかで表現しなければいけないのだが、そういった掘り下げが不十分なので、我を張っていがみ合っているだけの姉妹に見えてしまう。
【3】本当に人を殺しそうな女は派手に動き回らない
このご時世ではいい例えとは言えないが、ナイフを持って今にも人を殺しそうな人間というのを、舞台の上でどう演じるべきか? とにかくナイフを振り回して、最初の登場から派手に舞台を走り回って叫んで暴れてみせればいいか? いいや、そうではない。観客は最初のうちドキッとするだろうが。同じシーンが延々と続けば飽きてくる。舞台への集中が持続しなくなる。いくら役者が奇声を張り上げ、手足をばたばた動かそうと、そればっかりでは観る側はしらけてくる。
逆に、ナイフを持った人間が全身に力をみなぎらせ、険しい顔で殺気立った目線で相手をにらみつけ、じっと立っていたら? あるいはじりじりと近づいてきたら? 逆に観客はハラハラドギドキする。この男がナイフで襲いかかるのは今か今かと。ところがこの男がポーズはそのままでニヤリと笑いを浮かべたら? その表情の変化だけで観客は驚くだろう。一体、この男の心に何の変化が起きたんだ? だが手にナイフは握られたまま。次に何が起きるか分からない。自然と意識は舞台に集中する。──というように、上手い演技というのは動と静、序破急のテンポで緊張感を高め、巧みに観客の意識を舞台に集中させていくものだ。
エレクトラは、今にも人を殺しかねない女。その女がバタバタと動いてばかりでは、その女の存在自体が安っぽく見えてしまう。ここは動きを抑える──というよりも、動かずにいることで緊張感を高まらせ、動く時には緊張から爆発に転じるように一気に動く、というように、どこで動きどこで止まるかということを丹念に計算すべきだろう。
‥‥と、ここまで長く書いたが、まだまだ書き足りないことがあるんで、たぶん続きをまた書く。